今日のネタ帳

悪ふざけの話中心です。笑っていただければ幸いです。

『天気の子』で、水没した東京をなぜ人々は捨てなかったのだろうか。

〈ネタバレあり〉

新海誠監督『天気の子』では、東京に雨が降り続く。ずっと、ずっと。
時折降り止む雨と、雲間から差し込む陽の光、ひととき広がる青空に人々は、歓喜する。
光に照らされた街は美しい。新宿の路地裏、代々木の廃ビル、渋谷の交差点。
なにしろ雨が降り続くものだから、東京は、水没する。

水没した東京の街にも、しっかりと人々は息づいている。
一軒家を捨て、古びたマンションの中層階に引っ越し、船で学校や会社に通っている。
何があろうと、たとえ世界が狂っていようと、僕たちは生きていかなければならない。いや、生きていける。ぼくたちは、大丈夫だ。そんなメッセージなのかもしれない。

だがふと気になるのは、なぜ人々が水没した東京を捨てないか、ということだ。
アメリカ人なら、東京が水没すると分かればさっさと新天地を目指すのではないだろうか。「行こう、ここもじき海に沈む」とか行って。
水没する東京にしがみつく人々は、賞味期限の切れたレガシーにしがみついて「ぼくたちは、大丈夫だ」と言い続ける日本人の暗喩なのだろうか。

 

ラストシーンは水没した東京の街で、それでも主人公たちは再び出会う。

あれは「終わりなき日常を生きろ」ということなのだろうか。『ムー』のようなカタストロフィは訪れず、いや訪れたとしても無理やり目をつむって生きていってしまう、ということなのかも。
監督の真意としては、「雨の晴れ間ってきれいだよね」「水没した東京って見てみたくない?」「真夏の渋谷に雪がふったらびっくりだよね」「雲の上って何かいそうだよね」「よっしゃ、ワシがそういう光景をみんなに見せたるで!あちこちから金引っ張ってきて作ったる!世界をキャンいわしたるで!」ということだと思うが。

 

大人になってスレてしまった身としては、なぜ人々は水没した東京を捨てなかったのか」ということがどうしても気になってしまう。

 

いやもしかして。
映画には描かれなかったが、水没した東京を捨て、新天地を目指した者たちもまた、いたのかもしれない。
ある者は北へ、ある者は南へ向かった。海外へ移った者もいただろう。
北へ向かった人たちは、やがて北海道に定住し、そこをノースエリアと呼んだ。
南へ向かった人たちは、福岡を中心に暮らし、そこをサウスエリアと呼んだ。
しかし分断された日本はすでに以前のような国力を持ち得ず、ノースエリアは中国の、サウスエリアはアメリカの保護下に置かれてしまう。
そのとき主人公の柳舷一郎は台北で(日記はここでとぎれている)

 

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