今日のネタ帳

悪ふざけの話中心です。笑っていただければ幸いです。

ふるさと納税にみる我らが内なる「お米があれば大丈夫」感の話。

自分の心の奥に潜んでいた思いもかけないものと遭遇してびっくりすることがある。

先日、ふるさと納税の返礼品のコメを宅配便の人から受け取った。

そのときにぼくの心の中に湧いてきたのが「コメさえあれば何かあってもしばらく生きていける」というフィーリングで、自分の中にそんな感覚が潜んでいるとは今まで未自覚であった。

 

論理的に考えれば、幸い失業中でもないので食べるものに困っているわけでもない。
しかしDNAに刻まれた(比喩表現)コメへの愛と信頼が、上記のような感覚をもたらしているのかもしれない。

そうなるとほかにもどんな感覚が自分の中に眠っているのか興味が出てくるもので、もし次回ふるさと納税するならば、返礼品は味噌か醤油をお願いしようかと思っている。

 

それにしても今までまったく意識したことのなかった、コメの蓄えが家にある幸せと安心感という感覚が自分の中にあったことがなんとはなしに面白かった。なんというかもう安心感としか表現しようのないもので、これもコメ食民族のなれの果てだからこそ持つ特別なフィーリングなのであろうか。

レトリック的には「農耕民族の魂の底に眠る民族的記憶が呼び覚まされた」とでも表現するのだろうが、科学的にはどういうことなのだろうか。ハワイの日系3世の人々などはこういう「コメさえあれば大丈夫」みたいな感覚を持っているのだろうか。

あるいは同じ日本列島にルーツを持つ者であっても、山の民の末裔と海の民の末裔では感覚が異なるかもしれない。海の民の末裔の人々は、海に行くたびに「サカナさえあれば何かあってもしばらく生きていける」とか思うのだろうか。

科学的に証明/否定するには「コメさえあれば/サカナさえあれば何かあってもしばらく生きられる」という安心感を定義し、定性的定量的に評価できる手法を確立しなければならないよなあ。

さらに脳機能画像的に評価するのであればfMRI(ファンクショナルMRI、脳の血流量の変化を評価する検査)やPET(ポジトロン断層法。脳の糖分の消費のされかたなどを評価する検査)を用いて、米袋を与える前と後で血流や代謝の変化がないかを観察する方法なども検討に値いすると思われる。

 

そんなことを瞬時に考えながらずしりと重いコメを受け取った。

宅配便の受領書にハンコを押し、ぼくはじんわりとした「多幸感」につつまれた。そのあとに生まれてきた感覚が「炊こう感」であったのは言うまでもない。

それではまた。