今日のネタ帳

悪ふざけの話中心です。笑っていただければ幸いです。

いわゆる左派が性的に奔放なことを誇示しがちな理由。

下世話な話。


いわゆる左派にはなぜ性的に奔放な人が少なくないのかということについて以前に考えたことがある。
左派的なジャーナリストが都知事選挙に出馬したりすると昔のセクハラパワハラ的な言動が暴かれたり、左派的なフォトジャーナリストが裏でやらかしてたり、左派的な立ち位置の政治家が夜の街で弾けたり。

いわゆる左派的な人たちには性的なスキャンダルが目立つ気がする。

 

明治の元勲を考えると「お嫌いではない」方々もいるわけで、「お嫌いではない」人というのは右派左派問わずいるのだと思う。
だが、邪推だが、左派的な人たちの「性的やらかし」には、どこか誇示的なところがあるように感じる(立証するのは難しいが)。
あれはなぜだろうかと考え、答えらしきものを見つけた。

 

雑な定義だが、いわゆる右派というものは伝統や慣習、共同体的価値や信仰的規範を、一個人の判断より上位におく。
一方、いわゆる左派は、人間が論理や理性を働かせて下す判断は、伝統や信仰などの「因習」より優れている、と考える。
神を否定し伝統を否定し、十二分な論理的思考や理性的判断をもってすれば、一個人が最善の行動をとれると考えるのが左派的な立ち位置だ(ここでは右派左派のどちらがよいという価値判断はしない)。
だから、伝統的にある、性的行動の抑制というものが、いわゆる左派には「因習」に見える。

 

因習を打ち破るのが左派的なふるまいとインプットされているので、左派的な人たちは性的に奔放であることを誇示したがるのではないか、というのがmy仮説である。
リベラル的立ち位置の北欧やオランダでは、おそらく米国バイブルベルトとは性的価値観がだいぶ異なるだろう(←比較対象が我ながらズルいが)。

また、昔から、いわゆるエロ業界と左派的知識人は親和性がある。
いわゆる左派的な人たちの一部では、誇示的に性的に奔放に振る舞う、というのが、「因習打破」「神への挑戦」の象徴の一つなのだろう。
ちなみに右派的な人たちにも性的に奔放なことを誇示する人がいるが、あれはマチズモの表れなのではないだろうか。

 

まあそこらへんの、性的に奔放だから俺は進歩的みたいな態度は、今はなき今東光和尚あたりには「エロいから進歩的なんてちゃんちゃらおかしいや。古典を読んでみなよ、おまえよりよっぽどエロいことしてる奴なんか山ほどいるぜ。おとといきやがれ馬鹿野郎」と一笑に付されることだろうが。

それにしても、俺のクラスターか…。

 

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